(神明神社と天王山塚古墳 からのつづき)
- 塩野 博、「― 埼玉県南埼玉郡菖蒲町下栢間所在 ― 天王山塚古墳について」、1977、埼玉考古第16号
に、栢間古墳群の各古墳の場所がわかる地図(「第1図 天王山塚古墳の位置と周辺の古墳」。同 p.2)が載っていました。
グーグルの航空写真と「第1図」と見比べつつ、栢間古墳群と神明神社に KML でピンを立ててみました。
[map style=”width: auto; height:300px; margin:20px 0px 20px 0px; border: 1px solid black;” maptype=”SATELLITE” z=”15″ kml=”https://www.makisima.org/wp/v3c/20130615_kayama-kofungun_1977.kml”]
天王山塚古墳は、県道川越栗橋線を下栢間字本郷で、行田笠原蓮田線を約500m北西(鴻巣市笠原方面)に入ったところ、南埼玉郡菖蒲町大字下栢間3288ほかに所在する前方後円墳である。
この古墳は、元荒川左岸の北足立台地の笠原支台(標高14m)に立地し、「栢間七塚」と称され、現在7基で構成されている栢間古墳群の主墳である。 (同 p.1)
昭和52年(1977)の文献なので、地図には新幹線の線路がありません。現地の案内板では9基と書いてあったので、その後、いくつか古墳が確認されたようです。
墳丘は、西側(前方部裾)を町道に限られているが、東側及び南側に原形をみることができる。北側は町道及び墓地などによってかなり変形している。また後円部には、文政7年、領主内藤外記の家臣萩原鹿右衛久安が主命を以て浅間社信仰のため、中央よりやや北東寄りに直径約20m、高さ6mの土を盛って、天保2年、富士山浅間社を勧請した小山跡があるため、大きく変形している。
また、後円部上には、前方部へ移行するくびれ部の近くに、間口3間、奥行3間3尺の薬師堂が建立されている。したがって、これらに参拝するための石段が墳丘南側と北側に設けられている。(同 p.3)
前方部上にも須賀神社が鎮座していたが、それほど変形していない。(同 pp.3-5)
この天王山塚古墳が、明治9年に作成された「地引番号全図第18区武蔵国埼玉郡上栢間村」の天王山塚古墳の部分(原本は菖蒲町で所有)をみても(第2図)、墳丘が現況と変化しておらず、完全な形で保たれてきたのは、この古墳が、私有地ではなく、神明神社及び正法院の一社一寺の連帯管理によるものであったためであろう。(同p.5)
神明神社と関係があったわけですね。神明神社の社叢 550m の参道が保たれてきたのも古墳があればこそなのかもしれません。正法院は天王山塚古墳を挟んで反対のほうです。
天王山塚古墳は、前方部を元荒川の西向き(正確には北66.5度西)にむける。すなわち、前方部は、西より23.5度北に偏している。前述したように、昭和38年3月に墳丘の測量を行なったので、その実測図に基づいて天王山塚古墳の墳丘規模を算定してみる。
23.5度というと、地球が傾いている角度23.4度を思い出しますが、だからといって夏至の日にまっすぐに日がさすとか言う訳でもありませんね。
その等高線の図、「第3図 天王山塚古墳実測図(菖蒲町教育委員会原図)」(同 p.4)は略。似た図は「日本古墳大辞典」(東京堂出版)にもあります。
全長は107mにおよぶ大形のもので、埼玉古墳群の鉄砲山古墳(108m)につぐ前方後円墳である。後円部は、基底部の径55m、頂部は前述したように変形しているが、高さ12m、薬師堂前で5mである。前方部は、前端の幅62m、高さ8mである。したがって、後円部も当初8m以上あり、前方部高と後円部高とがほぼ等しい数値を示していたものと思われる(註10)。くびれ部は、比較的よく原形を留めており、基底部で幅26m、頂上で幅8mを測る。
なお、天王山塚古墳の平面形では、前方部と後円部の長さがほぼ同じであるが、前方部が拡がっているのが特徴である。
周堀は、後円部北側にその一部が残存している。現状では幅約8mであるが、建造当初は、この倍はあったものと考えられる。他の周堀部分は、畑や道路となり埋め立てられている。
内部主体の構造及び出土遺跡については、遺憾ながら何んの伝承もない。おそらく、…… (同 p.5)
上記、第1図の番号順に7基の古墳の簡単な紹介がされています。
1 天王山塚古墳
(上述の通り)
2 夫婦塚古墳(大字上栢間字古宮3804-3807) 屋敷内に所在する前方後円墳(第4図で、後円部は約3分の1ほど破壊されており、また南から前方部の裾及び東側には溝が掘られており、かなり変形している。
現長42m。後円部基底部の径23m、高さ2m。前方部は現前端の幅21m、高さ1mであることが判明した。なお、内部主体及び出土遺物は不明である。(同 p.6)
「第4図 夫婦塚古墳実測図(菖蒲町教育委員会原図)」(同 p.6)は略。
3 円墳(大字上栢間字古宮3843)
現径6m、高さ1mの円墳で、かつて須恵器及び埴輪が出土している。
4 禿塚古墳(大字上栢間字古宮3842)
行田笠原蓮田線及び町道によって大きく削られて、原形を保っていないが、円墳と考えられる。現径9.60m、高さ1.20m である。内部主体及び出土遺物は不詳である。
5 押出塚古墳(大字下栢間字本村3249)
天王塚古墳の南東約100mに所在する円墳で、現径10mである。内部主体及び出土遺物は不詳である。
6 富士塚古墳(大字下栢間字陣屋2886)
現径10mの円墳である。内部主体及び出土遺物は不詳である。
7 大日塚古墳(大字下栢間字大御228)
天王山塚古墳から1つだけ離れて所在する一辺20m、高さ3mの方形墳である。内部主体及び出土遺物については伝承もなく、これが、古墳であるかどうかは疑問の残るところである。(同 p.6)
その他、栢間古墳群から発見された埴輪の写真・解説、天王山塚古墳の建造の背景(埼玉古墳群との関係やその時期、周辺の古墳。この古墳は6世紀中頃の建造か)なども考察されています。
なお、埼玉考古学会の「埼玉考古」は所蔵している図書館がとても少ないようです。第16号については、
で探すと、埼玉県立浦和図書館に第15号〜18号の合本があります(禁帯出)。さいたま市立中央図書館は第16号が貸出可能。久喜市立菖蒲図書館では「天王山塚古墳について」の抜刷が貸出可能です。(いずれも2013/6/16現在) 埼玉県内でこんな状況なので、県外ではもっと少ないだろうと思われます。さすがに国立国会図書館にはあります(埼玉考古 (埼玉考古学会): 1977|書誌詳細|国立国会図書館サーチ)。
埼玉県全域での地図では、
- 文化庁文化財保護部(著作権所有)、「全国遺跡地図 11 埼玉県」、昭和52年(1977)、財団法人 国土地理協会(発行)
の「埼玉8 鴻巣」(地図のページ)と、番号・名称等の対照表で p.65 の No.69~73 と p.67 の No.204~213 のあたりが栢間古墳群になります。埼玉古墳群は「埼玉7 熊谷」のほうにあります。全国遺跡地図は縮尺の関係で小さな古墳の場所の特定は困難ですが、県内のどのへんに古墳があるのか概観するのに便利そうです。
- 宮川 進、「さきたま双書 さいたま古墳めぐり」、1997、さきたま出版会
には埼玉の古墳が見開きごとに写真付きで紹介されていて、天王山塚古墳は pp.98-99 の「さきたま古墳群周辺四天王の一つ ― 天王山塚古墳(菖蒲町)」です。
さきたま古墳群くらいは名前を知っていましたが、あちこちにたくさん古墳があるんですね。
(2013/6/16)
(2013/6/26) 誤字訂正
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